演题
呪いには虫の粪がよく効く-日常と呪术の境界から
発表者
东贤太朗氏(名古屋大学大学院文学研究科)
コメンテータ
常田夕美子氏(大阪大学グローバルコラボレーションセンター)
日时
2012年3月29日(木曜日) 18時30分~ (18時00分開場)
场所
京都大学 総合研究2号館 4階会議室(AA447)
会场までの道のりは、以下のアクセス?マップをご覧ください。
申し込み
不要。どなたでも自由に参加いただけます。
资料代
当日に资料代として200円いただきます。
要旨
「呪术とは何か?」という谜に取り组む上で、それが日常的実践の一形态であるとする方向付けは、呪术の他者性を过度に强调して描こうとしたり、近代やグローバル化という大きな物语に回収しようとする欲望を回避するためには効果的だろう。その上で、もう一度问いかけてみたい。呪术は日常的実践なのだろうか、と。
たしかに、Favret=Saada[1980]が「そんなはずはない、だがしかし…」という言明に寄せたように、私たちの日常のあちこちには呪術が現れる契機が偏在している。誰かが何かを恐れたり何かを願ったりするときに、神や精霊や超自然など、合理的な思考の枠組みには収まりきらないものへの想像力が発動することはとくに珍しいことではない。日常とは、むしろそのような呪術的想像力に彩られながら、合理と非合理、世俗と超越を含みこんで成立している。その点では、日常から呪術を切り離し、隔たったものとして扱う必然性はどこにもない。発表者自身も同様の観点から、特に呪術の経験や感覚という「実体性」に注目し、そのアイロニカルな心意作用が日常と非日常の差異を無化してしまうプロセスに注目してきた[東 2011]。
だがしかし、当然ながらすべての日常的実践が呪术的であるわけではない。私たちの日常は、多くの场合日々の淡々とした、自明な行為の繰り返しによって构成されている。そのような日常の自明性のなかに、突然呪术的な想像力が动き出すのである。その想像力は、强ければ强いほど普段は自明视していた世界のあり方を异化し、异なった世界の中でのみ妥当だと思われる呪术的実践へと展开していくかもしれない。日常における呪术的な想像力の発动、また日常的実践から呪术的実践への移行というプロセスにおいて、いかにして日常と呪术は结びついているのか。「日常的実践としての呪术论」が回避しがちなこの问いについて、本発表では取り组んでみたい。
そのために、これまで発表者の呪术论において扱いきることのできなかった特殊事例を取り上げたい。フィリピン地方都市のある1名の女性呪医は、他の呪医の病治しと比较して明らかに奇异にみられる呪术的治疗を行っている。発表では、患者にとっては受け入れがたい呪术的な世界観や民间医疗の体系が、「物语り」によってコンテクスト化され、行為によって「真理化」されていくプロセスを、いくつかの治疗の现场から微视的に描写してみたい。その上で、日常と呪术を架桥する决定的要因としての「希望」について、考察を试みる。
东贤太朗 2011 「リアリティと他者性の人类学―现代フィリピン地方都市における呪术のフィールドから」叁元社
Favret-Saada, J. 1980 Deadly Words: Witchcraft in the Bocage.
Catherine Cullen trans. Cambridge: Cambridge University Press.
问い合わせ先
京都人类学研究会事务局
E-mail: inq_kyojinken*hotmail.co.jp (*を@に変えてください)
备考
- 京都人类学研究会は京都を中心とする関西の人类学および関连分野に関心をもつ研究者?大学院生がその研究成果を报告する场です。
- 京都人类学研究会2011年度学生干事
安念真衣子 泉直亮 薄さやか 康陽球 北川了次 園田浩司 高田洋平 佃麻美 長岡慶 萩原卓也 二ツ山達朗 丸山大介 溝内克之 山口亮太 吉澤あすな - 京都人类学研究会2011年度代表
藤仓达郎(丑迟迟辫://飞飞飞.补蝉补蹿补蝉.办测辞迟辞-耻.补肠.箩辫/)