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授業に潜入! おもしろ学問
谷口一美
国际高等教育院/人間?環境学研究科 教授
「やかんが沸腾した」。私たちはなんの疑问も抱かずに、そう口にするが、これは比喩表现だと気付いているだろうか。なぜなら、沸腾するのはやかんの中の水であり、やかん自体ではないからだ。「示したいもの」の代わりに、近くにある「别のもの」を利用して伝える比喩表现を「メトニミー(换喩)」という。
「やかんが沸腾する」が比喩ならば、私たちはいかに无意识的に、数えきれないほどの比喩表现を発していることか。ではなぜ、「やかんの中の水が沸腾した」と正确に表现しなくても、その事実は伝わってしまうのか。闻きなれない「メトニミー」という键穴から比喩表现の部屋を覗いてみると、そこには言语と认知の宇宙が広がっていた。
「言叶の意味の広がり」というテーマのもとで、前回の讲义では「メタファー(隠喩)」について考察しました。今回は、メタファーと同じく比喩の一种で、「メトニミー」と呼ばれる表现を考えてみましょう。この闻きなれない「メトニミー」は、日本语では「换喩」といいます。定义は「近接性に基づく比喩」。益々难解になりますが、平易に言えば、「示したいもの」の代わりに、近くにある「别のもの」を利用して伝える表现です。?
近接性といっても、その种类は様々です。手始めに、「空间的な近接性」と「时间的な近接性」の二通りに分けてみましょう。前者は物理的な距离の近さ、后者は因果関係のように「これが起こると、次はこうなる」という、时间轴上の距离の近さです。?
? メタファーとメトニミー
? メトニミーの分类
他にも、「美容院で髪を切った(=美容院に行き、美容师に髪を切ってもらった)」、「病院で注射を打った(=病院に行き、医师?看护师に注射を打ってもらった)」なども近接性を利用した比喩表现の一种
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「空间的な近接性」をさらに分けると、「容器と中身の関係」や「主体と従属物の関係」があります。?「容器」と「中身」は一体的な存在ですから、物理的に近く、メトニミーの典型といえます。例えば、「锅を食べる」と言っても、锅そのものを食べるわけでなく、「锅」という容器で、锅の中の具材や锅料理全体を指しています。
これに対して「主体と従属物」は、「赤ずきん」のように、ある人がいつも身に着けている〈モノ〉で指す比喩です。好例は「グリーンベレー」。これはアメリカ陆军特殊作戦コマンドの隷下の特殊部队の通称として使われています。この部队の将兵だけに、緑色のベレー帽の着用が许されていたからです。装饰品などの付属物を介して、それを身に着ける人たちが担う役割や职业までも表すことができます。
関连して、モノとその机能の近接性を利用したメトニミーもあります。中でも多いのは、体の一部とその机能の関係を利用した惯用句です。「人を见る目がない」と言いますが、物理的に目は存在しています。私たちは物事の「善し悪し」を目で见て评価?判断することが多いので、「目」で「判断力」を表しているのですね。
もう一つの「时间的な近接性」のうち、代表的なものは因果関係です。?原因となる出来事と、その结果、引き起こされた出来事とが时间的に离れていると、因果関係を特定しづらくなります。因果関係が成り立つのは、「时间的な距离が近い」ということでもあります。
? 空间的な近接性
例にある「箱推し」とは、アイドルなどのグループのメンバー个人ではなく、グループ全体のファンであること。グループが「箱」という容器に见立てられている。
? 时间的な近接性
「小鸟游」(たかなし)という苗字の汉字表记と読みにも、「鹰がいない」(原因)→「小鸟が游ぶ」(结果)というメトニミーが利用されている。
具体例を挙げましょう。? 后悔することを意味する「脐(ほぞ)を噛む」。おへそを噛もうと、体をいくら屈めても、口はへそまで届きません。いくら挑戦しても「上手くいかない」ことが原因で「もどかしい」という精神状态がもたらされます。「脐を噛む」は、この原因と结果の関係を利用しています。同じ「噛む」でも、「唇を噛む」は唇を噛んだから悔しくなるのではありません。「悔しい」という感情が先にあり、その结果、悔しさをこらえるために唇を噛むという动作をするのです。実は「唇を噛む」のように、感情が原因となり、その结果として生じる动作を利用する表现の方が、圧倒的に多いのです。「脐を噛む」は、因果関係が逆転している珍しい例です。
? 因果関係を利用したメトニミー
同じ「どこかを噛む」という惯用句だが、原因と结果の関係が逆転している。
因果関係を利用する比喩表现には、「肩を落とした」や「头が下がる」など、身体に関连する表现が多いのも特徴です。「こういう感情を持つと、体はこう反応する」と、谁もが身をもって経験しているから、理解しやすいのでしょう。「村上春树を読む」のように、作者でその作品を表すというメトニミーもよく使われます。これも作者が一种の原因で、生み出される作品が结果であると见なせば、时间的な近接性によるものと言えるでしょう。
さらに、一連の出来事の最初の行動を指して、その続きに起こる出来事を表現する場合もあります。「机に向かう」は、机に向かって終わりではなく、「勉強する」という行為を表しています。英語の〈go to bed〉は「寝る」という意味ですが、「ベッドルームに行って、布団に入り、寝る」という一連の出来事の順番を利用して、就寝するという行為を指しています。
近接関係の中でも、部分と全体との関係に基づく比喩表现を、メトニミーとは别に、「シネクドキ(提喩)」と呼ぶことがあります。?
? 空间的な近接性
「バンドエイド」が绊创膏全般を指すように、ある商标をシネクドキに変えてしまうのは製品のユーザーにほかならない。ソニー株式会社は、自社の商标「ウォークマン」が类似の他社製品にも使用されたとしてオーストリアの会社を提诉したが、「ウォークマン」はもはや普通名词化していると判断され、败诉している。
部分と全体を用いた分かりやすい例は、体の一部を使った表现です。「头数を数える」とは、头だけの数ではなく、人数を数えるという意味です。头は体のてっぺんにあって目立っており、一人に一つしかありません。他にも「手が足りない」や「手を贷す」など、体の一部分で人全体を表す比喩は少なくありません。
逆に、全体が部分を表すパターンもあります。「大学が记者会见を行なった」と言うとき、大学全体が记者会见に临んだのではありません。正确に言うならば、记者会见をしたのは大学に属する一部の人たちです。
意外に思うかもしれませんが、「ミカンを食べた」という表现も比喩なんです。ミカンは皮ごとは食べませんから、正确に言えば「ミカンの皮をむいた部分を食べた」です。ミカン全体ではなくその一部を指しているため、これもシネクドキの一例といえます。
さらに部分と全体の関係は、「类と种」というカテゴリー関係にも当てはまります。大きな「类」が全体、その中に含まれる「种」が部分と见なされるためです。代表例は「お花见」です。花というカテゴリーにはたくさんの品种が含まれますが、「お花见」という言叶で指しているのは主に桜だけ。「花」という类で「桜」という一种を指しています。
これとは逆に、特定の一种の名前で、同类のものをまとめて表现する场合もあります。代表例は「バンドエイド」。バンドエイドはバンドエイド社の商品名ですが、绊创膏という分类全体を指す比喩として使われることが多いですね。
なお、「类と种」の関係によるものだけをシネクドキと见なし、モノの部分?全体関係によるものをメトニミーとする立场もあります。「类と种」はモノ同士の関係ではなく、概念的な関係であるというのが主な根拠です。しかし先ほど见たように、メトニミーが全てモノ同士の近接関係によるわけではなく、「肩を落とす」、「机に向かう」のように时间的な近接関係によるものもあります。なんらかの基準を立ててメトニミーとシネクドキを厳密に分けようとすると、どちらに入れればよいのかが曖昧なケースはたくさんあります。そのため私は、シネクドキもメトニミーの一种と见なす立场をとっています。
「ミカンを食べた」という表现までもが比喩だということになると、もう际限がなくなりますね。このように、私たちの使う言叶は、必ずしも、全て字义どおり正确に表しているわけではないのですが、こうした言叶と意味とのズレには谁も気が付かないし、気にも留めていない。
正确に表すなら、「ミカンの皮をむいたものを食べた」と言わなくてはいけませんが、そう言わずに済んでいる。私たちは「ミカン」という言叶が指す全体から、その都度、适切な意味を取り出して解釈しているのです。例えば「ミカンが机にある」ならミカン全体を表しますが、「ミカンを食べた」と述语を変えると、「『ミカンを食べた』と言っているけれど、皮は食べないだろう」と判断し、适切な部分を选び取っている。だから、「ミカン食べた」という相手に、「皮は食べていないよね」なんていちいちツッコミをすることなく、コミュニケーションがちゃんと成立するのです。
ここまでは、様々な用例を挙げながら、メトニミーという比喩表现の幅広さを绍介しました。私たちはなぜこのように频繁にメトニミーを使っているのでしょうか。そして、メトニミーによって指し示されるものが难なく理解できるのはなぜなのでしょうか。
メトニミーの特徴の一つに、「喩えるもの」と「喩えられるもの」とを入れ替えられない场合が多いことが挙げられます。容れ物で中身を指す事例はたくさんありますが、中身で容器を指す事例はほとんどありません。これを手がかりに考えてみましょう。
认知言语学では、メトニミーとは「参照点を経由してターゲットを指し示す现象」だとされています。?これを初めに提唱したのは、认知言语学者のロナルド?ラネカーです。参照点(レファレンス?ポイント)とは、分かりやすく言えば「目印」のことです。あるターゲットに注意を向けたいけれど、色々な理由から直接は向けにくいときに、ターゲットの近くにある目印を経由して注意を向けると、分かりやすく伝わるということです。
? メトニミーを认知言语学的に考える
京都大学の学习支援システム「笔补苍诲础」にちなんで、授业にパンダのパペットを登场させています。集中力が途切れがちなオンライン讲义で、学生の兴味を惹きつけ、集中させる役割も
これは日常生活でもよくあることですね。例えば、京都大学から出町柳駅までの道のりを寻ねられたとしましょう。「正门から北西方向に500メートル行ったところに……」という説明では、相手はきっと迷ってしまうはずです。「まずは百万遍の交差点まで行ってください。それから西に……」と、分かりやすい目印を示して、それを経由する方が、迷わずターゲットに辿り着きそうですね。
メトニミーの表现も、私たちが日常生活において目印を利用するのと同じことをしているのではないかと考えられています。「やかんが沸腾した」という表现も、やかんの中の水を指したいけれど、容器に入っているので中身の水は见えない。そこで、「见えている容器を目印にしましょう」、「ターゲットは目印から近くにあるので、简単に辿り着けますよね」ということなのです。
ということは、目印はターゲットよりも目立たなければなりません。目印よりもターゲットの方が目立っていれば、わざわざ目印を経由する意味はない。だから、メトニミーの表现では、目印となる「喩えるもの」とターゲットとなる「喩えられるもの」とをひっくり返すことはできないとされているのです。
「ミカンを食べた」という表现について説明したときに、チャット机能を経由して、みなさんからのコメントがいくつか届いていますので、绍介しましょう。
「『ミカンを食べた』という例を挙げられて、『うわ、めんどくさい』と思ったのが率直な感想です」。
そうですよね。そこら中シネクドキで、嫌になりますよね。
「ミカンの皮をむくかどうかの话になると、野菜や果物は全て『シネクドキ』に分类されてしまう気がします」。
はい、そのとおりです。「ミカンを食べる」という表现までもメトニミーに含めたくないという気持ちは分かりますが、ここで重要なことは、比喩表现と比喩でない表现をどこで线引きするのかということです。比喩表现を使うのが意识的か无意识的か、使用频度が高いか低いかは、メトニミーかシネクドキかを决める基準としては机能しません。
というのも、私たちは日常的に多くの比喩を用いていますが、その多くは「死んだ比喩(dead metaphor)」です。「よく考えてみれば比喩だよな」、「よく考えたら、この言葉が指しているものはズレているな」というものが多く、それに気付かずに使っていますよね。元々は比喩だったけれども、使ううちに慣習化して、比喩らしさを失っている表現がとても多いのです。そういう「デッド」な状態で、日常に馴染んだ比喩を、私たちは使っています。
この讲义で注目しているのは、私たちが言叶で指しているものと、実际に指しているものがズレているということです。そして、「ズレているけれど、伝わる」のはなぜか。これがポイントです。私たちは、これほどまでにたくさんの「ズレている表现」を使っているのに、それでも难なくコミュニケーションが取れるのはなぜなのか。「みかんの皮をむいたものを食べる」と正确に言わずとも、なぜ伝わってしまうのか。それは、先ほど话したように、「分かりやすい目印を使う」という、「参照点を経由してターゲットを指し示す」という认知言语学のモデルで説明すれば、纳得できますよね。
私たちが日常で比喩を多用するのは、相手に分かりやすく伝えたいからです。その目的は、メタファーでもメトニミーでも同じですが、その方法は异なります。前回の讲义で议论したメタファーは、例えば「ツイッターが炎上した」の「炎」と「ツイッターのタイムライン」とのように、概念领域が大きく异なる二つのものに类似性を见出しています。一方、今回のテーマのメトニミーは、メタファーほどダイナミックに概念领域は异なりません。「手を贷す」と言うときの〈手〉は、手を贷す人物全体を指します。〈手〉とこの人物全体とは、同じ概念领域内にあるのです。
メトニミーの语源はギリシャ语のチェンジ?オブ?ネーム、「名前を変える」です。あるものを指したいけれど、ダイレクトには呼びづらいから、近くの别のものを借りる。これがメトニミーです。
? 共感覚比喩
「触覚」は他の感覚を最も形容しやすい。「柔らかい音」、「柔らかい色」、「柔らかい味」など。一方で、触覚の名词は他感覚の形容词では修饰しづらい。「甘い布」、「香ばしい布」、「うるさい布」、「明るい布」など、违和感のある修饰が多い。
ちなみに、死んだ比喩の最たる例は「共感覚比喩」です?。共感覚とは、「音を闻くと色が见える」、「文字に色がついて见える」など、异なる知覚が连动する现象です。共感覚者ではなくても、これに似たことが日常の言叶の上で繰げられています。例えば「柔らかい音」という比喩表现は、触覚に関わる「柔らかい」という形容词で「音」という聴覚の名词を修饰しています。「音」の感じを触覚の「柔らかさ」に似たものとして喩えているので、比喩といえるのです。次回の授业は、この共感覚比喩を手掛かりに言叶と认知の関係を掘り下げましょう。
たにぐち?かずみ
1969年、石川県金沢市に生まれる。1996年、大阪大学大学院文学研究科中途退学。同大学文学部助手、大阪教育大学教育学部准教授、京都大学大学院人间?环境学研究科准教授などを経て、2016年から现职。
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