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2018年6月12日(火)1限〈吉田南1号馆地下共1教室〉
授業に潜入! おもしろ学問
道坂昭廣 先生
人間?環境学研究科/国際高等教育院 教授
高校までは「古典科目」の一部として、多くの生徒が习う汉文。返り点や文法的な仕组みにばかり気をとられるあまり、そのおもしろさに気づかないまま、苦手科目と决めつけて敬远してしまう人は多いのではないだろうか。「汉文を深く読むと、人间味あふれる逸话がちりばめられていることに気づくはずです。中国古典の世界をもっと亲しみやすいものにしたいんです」。そんな思いで教坛に立つ道坂昭广教授。讲义の内容は汉文の読み方にとどまらず、时代背景と文化、汉文をめぐる研究の动向、ときには雑学にまでおよぶ。
今号は道坂教授の授业「中国古典讲読论A」に潜入し、汉文の魅力に迫った
北宋时代に编集された全500卷の类书。テーマ别に前汉から唐代までの人びとの逸话が収録されている。
きょうは『太平广记』の中から、「才婦」の項に載っている「上官昭容」を訳します。この授業では四月から「賢婦才婦(優れた女性)」の項を順に読んできました。「才婦」は才能のある女性たちの逸話です。上官昭容(名は婉児、昭容は称号)もその一人。初唐時期の超有名人で、ときどき時代劇などにでてきますが、上官昭容を知っている人は、かなりの〈中国オタク〉だと思います。
では、さっそく読んでいきましょう。この话の时期は、则天武后(武则天)が権力を握っていました。
今回の主人公、上官昭容がさっそく登场します。「娠」は「上官昭容が妊娠していたとき」とも「上官昭容がお腹にいたとき」とも読めます。
(ミニコラム 1)
话が始まったばかりだから、后者のほうがよさそうです。
中国では结婚しても女性の姓は変わりません。上官昭容のお父さんは上官氏ですが、お母さんは郑氏のまま。上官昭容を身ごもったお母さんの梦に、この世の人とは思えない神人が出てきた。
「畀」は「赐」と同じ。「赐」は上から下に物を送るという方向性を示す。つまり、人间より神のほうが上ということを意味します。梦に出てきたある神様が「これで世の中を量りなさい」と言い、お腹の子に大きな秤を与えました。
生まれて一か月、母の郑氏は上官昭容をあやしながら言いました。「あなたはこの世の中を秤で调べるんじゃないの?」と。これは反语です。お母さんは子どもにいろいろ话しかけますよね。子どもはまだ话せず、バブバブと言っているころですが、母のことばに応えて「是=そうだ」と言った。贤い人は子どものときから贤い。赤ちゃんの顷から自覚があったのかも。(笑)
ところが、その后、この一家の状况は変転します。上官昭容の祖父、上官仪は高宗皇帝の侧近でした。
(ミニコラム 2)
则天武后が権力を掌握する过程で、亭主の高宗に「则天武后を抑えたほうがよいのでは」と进言しました。それで则天武后に憎まれて、上官仪は杀されてしまいます。
ふしぎなことに、国家に処罚された犯罪者の家族の中で、男性は杀されますが、女性は宫中の奴隷になります。それと同じことが起こり、おじいちゃんが杀されるという「祸」にあったので、オムツをしている幼い上官昭容はそのまま宫中に入れられました。
宫中に入り、一四歳になりました。「聪达敏识」は头の回転が早いこと。才能は比べるものがないくらい优れていて、圧倒的な能力を示した。その噂を闻きつけた则天武后は、确かめることにしました。
则天武后に试された上官昭容は、笔を取るとたちまち文章をつくりました。
「宿」には、「あらかじめ」という意味があります。「宿题」は事前に出しておく问题ですから、授业の前に教室であわてて友人のノートを写すのは本来の単语の意味から、ちょっと意味がずれます。「宿构」もあらかじめ文章の构想を练っているということです。とつぜん课题が出されたのに、彼女は前から考えていたかのように、即座にすばらしい文章が书けたのです。
ここでわかるのは当时の文学の価値。この时期は、笔をとったらすぐに书きあげることが评価されていました。スピードが価値を决めたのです。
(ミニコラム 3)
「初唐の四杰」の一人に王勃という人がいます。王勃の逸话にも「すぐにできた。まるで前から準备して考えていたようだ」という话が出てきます。「援笔立成。皆如宿构」はこの时期の文学者を褒める典型で、かたちを変えてよく出てきます。
これと対照的なのが「苦吟」。苦しんで生みだすことです。私たちの文学に対するイメージは苦吟ですが、时间をかけて苦心するようでは、当时は优れた文学者ではなかったのです。
これは期间を表しています。万歳通天(696年)以降、景龙(707?710年)まで。则天武后は年老いて退位し、唐王朝が復活します。景龙は唐王朝復活后の年号、つまり则天武后が退くまでの期间です。
690年に则天武后が唐の王朝をのっとり、周という王朝をつくりました。唐は成立から70年ほどでいったん灭びましたが、则天武后が705年に退位させられ、唐が復活しました。その后の政治的混乱に巻き込まれ、上官昭容も杀されてしまいます。かわいそうなことに、祖父の上官仪と同じ运命を辿るのです。
「宸翰」は、皇帝が书いた文书のこと。日本でも「明治天皇の宸翰」といいますね。この场合は则天武后の文书。それがつねに上官昭容の担当とされ、彼女が勅书のすべてを书いたのです。それだけではなく、军事や国家の运営のようなはかりごと、官僚たちを生かす?杀すという重要なことにも、彼女は参画した。これが、のちに彼女が杀される原因となります。
上官昭容は不遇にある优れた若者を求めました。「兴」は「事态が上向く」ことをイメージしましょう。「鬱」は二つ意味があり、鬱苍として茂るというよい意味と、鬱屈とふさがるという悪い意味とがあります。この场合、鬱苍と生い茂るというプラスの意味。ですから、诗文が勃兴したということです。
この二つの句は対句になっています。国に学问を好む人びとがいて、朝廷に无学の家臣が少なくなった。
対句…并置された二つの句が语形や意味上、対応するようにつくられた表现形式
「二十年间」は彼女が活跃してから景龙までの约20年间のこと。「野」は民间のこと。「遗逸」は世に忘れ去られた隠者のことです。「民间に隠者を残すことはなかった」というのは、当时、世の中に実力が认められず隠者になる人はいなかったという意味です。
「野无遗逸」と似た四字熟语に「野无遗贤」があります。
(ミニコラム 4)
「野に遗贤なし」と読みますが、これは儒教における理想的な世の中の状况です。在野に遗贤がいないということは、つまり、贤者はみな朝廷にいるということ。世の中がうまく治まっていることを意味します。
この句は、上官昭容を褒めています。优れた人物がみな朝廷に仕えているのは彼女の力のおかげだと。
彼女が天下を量ったということには次のような逸话があります。文学的才能に秀でた宋之问という人がいました。
あるとき宴会で诗人たちが皇帝の前で诗をつくりました。优秀な人には褒美の品が与えられたのでしょう。诗は御殿の上の上官昭容に届けられました。彼女は落选作を次つぎと下に落としてゆきます。最后に宋之问とライバルの诗人の二首が残りました、しばらくして相手の诗が落ちました。宋之问の诗に対する彼女の评は、ライバルも纳得したといいます。文学作品の优劣の判定を彼女が下したというのがこの话の重要なところです。
ところが、晩年になって、派阀をつくり、仲间びいきをして、権势を弄んだために、朝廷の人たちは上官昭容を信頼するより、畏れるようになります。
さきほど言いましたように、则天武后の晩年、唐が復活します。しかしその后も暗闘が続き、最终的な胜者が玄宗皇帝です。「玄宗の平难」というのは、玄宗皇帝が难を平らげる、つまり政敌を倒したという意味。そして、上官昭容は杀されました。
上官昭容にまつわる记録は、则天武后の时代に集中していますが、彼女のおかげで、不遇に沉んでいた优秀な人たちが日の目を见た话はあまり知られていません。资料が残っていないのです。
现代の私たちが目にしている唐代文学の作品は、実は全体のほんの一部にしかすぎません。大部分は时代の波の中で消えてゆきました。
(ミニコラム 5)
上官昭容の文学作品や资料は、たくさんあったのではないかと思います。
玄宗皇帝は唐を復活させた英雄です。唐にとっては、则天武后时代のことを贬しておいたほうが都合がよい。その影响を被ったのが上官昭容のように思います。负けたほうはつねに、正当な评価はされず、贬される倾向があります。
たとえば隋の煬帝も、唐の时代に「悪人」と决めつけられました。悪人であればあるほど、唐の王朝が隋を倒したことが正当化されるからです。古典に残る人物像をとらえる场合は、谁によって评価されたものか、そしてその评価が正当であったのかどうかを注意深く确认する必要があるでしょう。
みちさか?あきひろ
1960年に大阪府に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士课程中退。叁重大学人文学部助教授、京都大学総合人间学部助教授、同大学大学院人间?环境学研究科准教授をへて、2012年から现职。専门は中国古典文学。
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