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京都大学広报誌
京都大学広报誌『红萠』

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恩师を语る

2018年秋号

恩师を语る

「なぜ」のこころが出発点

幸岛司郎
野生動物研究センター 教授

動物の謎を解き明かし、行動の意味と目的を探究する動物行動学。この学問を日本に導入し、その第一人者として知られたのが日髙敏隆先生。幼少期にはイモムシに、「どこに行くの?」と問いかけた日髙先生は、最期まで「なぜ」を追究し、動物たちの世界を「なんでやろうねぇ」と見つめ続けた。わかりやすいエッセイは人びとを惹きつけ、研究室には指導学生はもちろん、一般市民までが出入りし、にぎやかな声が絶えなかった。日髙研究室で13年を過ごした幸岛司郎教授。氷河に住む昆虫がいる、という世界初の発見は、「なぜ」のこころを支えていただいた日髙先生なしにはありえなかった

北极圏にあるスピッツベルゲン岛ロングイェールビーンの炭鉱跡地にて撮影。1992年に幸岛教授たちの氷河调査に同行された日髙先生

「授業もおもしろかったし、飄々とした人柄も魅力的、〈この人ならええかな〉ってね」。どこか照れくさそうに笑いながら幸岛司郎教授は、卒業研究の指導のお願いに日髙敏隆先生の研究室に押しかけた日のことから語りはじめた。〈憧れの霊長類学の先生はみんな京都大学山岳部の出身だから〉と山岳部に入ったのが運のつき。「山登りにあけくれて、講義に出ないどころか大学にも行かないアホな学生だった」。

当时の霊长类学は人気があって、学内にはすでに优秀な学生や大学院生がたくさんいた。特に贤くもない自分が入っても、〈おもろいことなんかできそうもない〉と諦めかけていたときに现れたのが日髙先生。なかば助けを求めるように、日髙研究室のドアを叩いた。「ぼくは昆虫が専门だから、昆虫にしない?」と日髙先生。とりあえず、ジャン?アンリ?ファーブルの『昆虫记』を1巻から10巻まで、一所悬命に読んだ。

「ふしぎなことを一つ、见つけてきなさい」

学生时代の日々は、とにかく山がすべて。〈ほかの学生のように研究室で虫を饲って実験する时间はない〉と、研究よりも山に行くことを优先した。おまけに、〈ヒマラヤに行くチャンスのある研究がしたい〉と研究の目标までもが山。

日髙先生はそんな学生を面倒に思うそぶりもなく、「それだけ山が好きな人はなかなかいない。山に登る力も一つの才能、山で研究すればいいんじゃないか。ふしぎに思うことを山で一つ见つけて、それを调べれば……。ヒマラヤにもそのうちに行けるかもしれないよ」。
〈そんなことを言われてもなぁ〉と半信半疑で、いつものように尾瀬の雪山に出かけたある日のこと。スキーで転んだ雪面に、偶然一匹の虫が歩いていた。体长约八ミリメートルの羽のない小さな昆虫、セッケイカワゲラだった。〈マイナス10度にもなる雪の上でどうして动けるんやろ。何を食べて、どこに向かって歩いているんやろ……〉。「见ているだけでたくさんのふしぎが头に浮かびましたね」。

雪山にテントを张り、月曜日から金曜日まで调査。土曜日に下宿のある京都に帰り、月曜日にまた山へ。虫を追いかける生活は雪が消える春まで3か月以上つづいた。そんな日々だから、「大学院に受かるまで3年かかりました」。その间はすべて、セッケイカワゲラの生态研究に捧げることになったという。「わざわざ雪山で昆虫を调べようなんて人がいなかったのでしょう。ところが、ここは新発见の宝库だった」。

マイナス16度の世界で生きる昆虫の発见

「こんなに寒くて、どうして生きられるのか」という疑问を抱えて日髙先生に报告。冬眠中に血液が冻らない仕组みの昆虫がいること、寒い高山帯に生息するチョウは日向に出ることで体温を调整していることなどを初めて教わった。「それなら、セッケイカワゲラも日向で体温を调整しているのだろう」。

ところが、日向でも日阴でも、セッケイカワゲラの体温は気温と同じ。人の手のひらで温めてやるとけいれんして动けなくなってしまう。「寒くても生きられる」のではなく、「寒くないと生きられない」のだ。「昆虫は寒いところでは生きられない」は、単なる思い込みであると知った。

ならば、ヒマラヤの氷河に昆虫がいてもおかしくない。しかし、氷河に昆虫がいるという文献はどこを探しても见つからない。〈みんなが気づいていないだけだ〉と、ヒマラヤの氷河に足を踏み入れた。

こうして、氷河に定住する昆虫を世界で初めて発見することになる。それが、学名に幸島教授の名前を冠するヒョウガユスリカ(Diamesa kohshimai)。「なによりの発見は、彼らが雪氷中で増殖する藻類やバクテリアを食べていたこと。しかも、これらの微生物を食べるミジンコまで生息していたんです」。無生物的環境と考えられてきた氷河に、小さいながらも多様な生物の世界が拡がっていた。「これってすごい発見だと思ったんですが、どうすごいのか、ぼく自身うまく理解できていなかった」。すると日髙先生が、「君は〈氷河生態系〉という新しい生態系を見つけたんだ」と。「日髙先生のことばで、ようやく自分の発見の意味をちゃんと理解できた」。

ヒョウガユスリカ。体长约3尘尘。オス(下侧にいるスリムなもの)は一生、氷河の表面には出ない。メスは氷河の上を歩いて上流に移动してから产卵する。

セッケイカワゲラ。体长约8尘尘。川の上流に移动してから产卵する

この発见は、雑誌『ネイチャー』に掲载される大発见となった。「山好きのぼくを尊重して、日髙先生がヒマラヤに送りだしてくれたからこその発见でした」。通常、共着者の栏には指导教官の名前を载せるものだが、日髙先生は相谈にのっていたにもかかわらず、「见たこともない虫の论文に名前は载せないよ」と辞退し、単着として発表することになった。しかし、日髙先生にとっても、雪山に生きる昆虫の発见はインパクトがあったのだろう。日髙先生のエッセイや讲演では、幸岛教授の名前と氷河の世界の昆虫の话がたびたび登场する。

「役に立つ」ってどういうこと?

日髙先生と交わした会话は数えきれない。思い出深いのは40年ほど前、幸岛教授が4回生の顷。学园纷争は収まっていたとはいえ、议论はまだまだ活発な时期だった。まわりの学生に〈昆虫なんて能天気な研究をしていてよいのか〉と问われて、〈そうかもしれないなぁ。けど、おもしろいんだよ〉と悩んでしまった。ある日、「相谈があるんですが……」、いつもとは违う神妙なトーンで日髙先生に声をかけ、先生と二人で饮みに出かけることになった。

「人の役に立つ研究をすべきでしょうか」。そう切りだした幸岛教授に日髙先生はこう切り返した。「理学や工学系の研究ではすぐに、何の役に立つのかと闻かれる。でも、考古学や文学の研究のように、社会に新しい视点を提示したり、人のものの见方を変えたりすることも〈役に立つ〉こと。科学も本来は同じ。私たちの研究は、人の心を豊かにすることで〈役に立つ〉んだよ」。「ぼく个人の関心?欲求にしたがって研究していることに后ろめたさを感じてきたが、〈それでいいんだ〉と肯定された思いでした」。

昆虫の生きる世界を知ることも、人の心を豊かにする。「目や耳が退化して、色や音のない世界で生きる昆虫もいます。人间とは异なる世界に生きる昆虫を理解することで、ぼくたちが世界を见るときの视点も拡がる」。幸岛教授のセッケイカワゲラの话を闻いた日髙先生は、のちにエッセイにこう记している。「人间にとっては、寒くてなにもない雪原が、ユキムシには楽园のように见えているかもしれない」。

サイエンスは疑问からはじまる

学生の疑问やふしぎを尊重する日髙先生のスタイルは、幸岛教授にそのまま受け継がれることになった。学生の兴味を尊重するあまり、幸岛教授の教え子たちが研究する动物は、イルカやオランウータン、ヤマアラシからネオンテトラ、果ては植物や微生物まで多种多様だ。

中でも前任の工业系の大学では、动物研究は异端中の异端。だから、「どうしても动物の研究がしたい」という顽固者が集まってきた。伊豆诸岛の御蔵岛で胜手にイルカの研究をはじめて、「手に负えない、と研究室を追い出されてやってきた学生もいました」。

研究室の扉を叩く学生にまず闻くことは、〈なにが知りたいの?〉。
动物研究の世界に入ると、苦労することは目に见えている。「ぼくも、『ネイチャー』に载るなどの仕事をしてきても、35歳になるまで定职に就けなかった。その覚悟は必要だし、そのリスクを冒すのだから、一番〈知りたい〉ことを研究しなきゃだめ」。

子どもは頼まれもしないのに、〈楽しいから〉と歌い、踊る。同じように、頼まれもしないのに、〈これはなに?〉、〈なんで?〉と知りたがる。「知ることはうれしく、楽しいことなんだと実感します。わからないことがわかるとうれしいし、それが自分でつきとめたことならなおのこと。そのよろこびを论文や书籍でほかの人にも分けてあげたい。そういうよろこびにかられていれば、研究は続けられます」。
「思えば、日髙研究室にも行き场のない学生がよく出入りしていたな」と、幸岛教授は回想する。働きながら学位をとった小学校の教员もいた。疑问があれば、そこに研究は生まれる。「頼むから、ヤマアラシの研究をしてくれ」と人に言われることはおそらくない。でも、ヤマアラシが夜に何をしているのか、どうしても知りたいというなら研究すればいい。「そんな学生たちの面倒を见て、背中を押してしまうのは、日髙先生にそのように育てていただいたからでしょうね」。

叡山电鉄二轩茶屋駅の近くにある先生のご自宅の里山にて。1982年撮影。学生たちを招いてバーベキューをした。写真右端が日髙先生。右から2人めが幸岛教授

スピッツベルゲン岛の东ブレッガー氷河にて。1992年。当时の日髙研究室の学生、研究员との写真。氷河周辺の花を授粉する昆虫を観察されていた。写真右端が日髙先生

「なぜ」の潮流はさらに太く流れゆく

幸岛教授が研究报告のために研究室を访ねると、日髙先生はいつも、「おもしろいなぁ。なんでだろうね?」と话を闻いてくれた。职もなく、苦しい时期もあった幸岛教授にとって、ふしぎを一绪に楽しんでくれる日髙先生の姿は、〈自分のしていることはまちがいではない〉、そう再确认できる一つの指针でもあった。

「イルカはどうやって眠るのか」、「白目があるのはヒトだけか」……。幸岛教授と教え子たちの、ニッチだけれど有名科学誌に载るほどの研究の一つひとつに、素朴な「なぜ」の痕跡をみる。

地球上に残る「なぜ」は、日髙先生の教えを受け継いだ幸岛教授と教え子たち、これから育つ次世代の研究者たちが明らかにしてくれるはず。日髙先生も安心して、むこうの世界の「なぜ」を、今も楽しみながら追究しているのではないだろうか。

日髙先生(前列左から3人め)の叙勲?受章を祝うスッポン锅の会。2008年に撮影。后列右から3人めが幸岛教授

こうしま?しろう
1955年に名古屋市に生まれる。1985年に京都大学大学院理学研究科博士课程満期退学。理学博士。东京工业大学理学部助教授、同大学大学院生命理工学研究科准教授をへて、2008年から现职。2011年から2017年まで、野生动物研究センター长を务める。

日髙敏隆 略年谱

1930东京都に生まれる
なじめない小学校の授業をずる休みして出かけた野原でイモムシを観察。「どこに行くの? 何しているの?」大切な原点だったと、日髙先生はのちに回想している。
1952东京大学理学部动物学科を卒业
1959东京农工大学农学部讲师
1961东京大学理学博士
「アゲハチョウ蛹における形态学的体色変化の内分泌的机构の研究」
1963

訳书『ソロモンの指环──动物行动学入门』出版


ノーベル生理学?医学赏を受赏したことで知られるコンラート?ローレンツの科学エッセイ。ほかにも数多くの訳书をとおして、生物学の新分野を日本に绍介した。
1965东京农工大学理学部助教授をへて教授
1975京都大学理学部教授
1976

第30回毎日出版文化赏 自然科学部门受赏


『チョウはなぜ飞ぶか』
「りっぱなクロアゲハを捕まえたいのに、いつも高い木の梢のあたりを飞んでいる。いつも同じ道を飞ぶのではないか?」。8歳の顷から抱きつづけ、20年の时をへて解明した「蝶道」の话をまとめたエッセイ。
1982

日本动物行动学会设立

1989京都大学理学部长
1993京都大学を退职
京都大学名誉教授
滋贺県立大学开设準备室顾问
1995滋贺県立大学初代学长
2001総合地球环境学研究所(京都市)
初代所长
2007総合地球环境学研究所名誉教授
2008瑞宝重光章を受章
200911月 日髙敏隆先生 逝去

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