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京都大学広报誌
京都大学広报誌『红萠』

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恩师を语る

2021年秋号

恩师を语る

生涯、衰えることなき青き炎

多賀 茂
人间?环境学研究科 教授

18世纪、西欧社会は近代へと移り変わる真っ只中。自然科学が进歩し、神を絶対视するキリスト教に基づいた世界を揺り动かし始めた17世纪の余波の中で、人间や社会、国家の新たな在り方を模索したのがルソーやディドロなどの启蒙思想家。のちのフランス革命につながった启蒙时代のフランスに、中川先生は深く根を张り、生涯にわたって凄まじい深度で研究を続けた。业绩は国内外で评価され、ディドロについての着作はいまや、世界各国のディドロ研究者の基础资料。定年退官后にさらに速度を上げて熟思を重ねた中川先生。その果てなき思索の源を、多贺茂教授の案内で旅する。

「生涯、独自の视点で次々と新たな问题を见つけ、追究する人でした。研究领域は、18世纪のフランスからいっさいブレなかった。私は逆に、次々と研究领域を移ろうタイプなのですが……」。穏やかな笑みをたたえ、师と仰ぐ中川久定先生との记忆を辿る多贺茂教授。「一方で、领域外のことに幅広く兴味をもつ懐の深さがありました。新たな知识に出会ったときの先生の目の辉きは忘れられません」。

知识を前に、
辉く目に受けた衝撃

中川先生との出会いは、多贺教授が京都大学文学部の学生だった40年あまり前にさかのぼる。美学美术史学の専攻ながら、フランス语の魅力に目覚め、大学院はフランス语学フランス文学科への进学を希望していた。「受験が可能か、执笔中の学位论文を持参して仏文科の先生方に相谈に伺ったのです」。论文のテーマは、当时の最新の学问であった记号学。翻訳版すら出ておらず、原着を読んで论文にまとめた。「読むなり目をギラギラさせて、『独创的でおもしろいことをしているじゃないか』と。记号学はご存じでないようでしたが、新しい知识を吸収しようとするエネルギーに、『いい先生だ』と强烈な印象が残りました」。

晴れてフランス语学フランス文学科に进学。19世纪の诗人を研究する多贺教授と、18世纪が専门の中川先生とは讲义などでの接点はなかったが、ゼミやコンパを通して交流を重ねたという。「お酒の席では、学生たちの论争をニコニコしながら闻いておられました。中川先生は大分県にあった冈藩の第18代当主にあたります。昔なら〈お殿さま〉にあたる高贵な方ですが、だからこそなのか、お高くとまらず、谁とでも気さくに喋ってくださる。博士课程の途中でパリに留学したときは、当时住んでいた狭いアパートに奥さまと2人でなんどか访ねてこられたことも。ちょこんと座り、嬉々と话をされる姿を覚えています」。

留学中に?フランスに来られた先生と。

目の当たりにした学者としての凄み

新しい知识への情热とともに、フランス语学フランス文学科の扉を叩いた多贺青年がどこか気にかかったのかもしれない。パリで博士号を取得し、いざ日本に帰るというとき、「『多贺くん、やってみないか』と専任讲师の职を準备してくださっていました」。中川先生に导かれ、研究者としての一歩を踏み出した。

2年后に京都大学教养部の助教授に就任してからは、中川先生と仕事をする机会が増えた。「电话が短いことで知られ、电话に出ると唐突に、『翻訳を手伝ってくれるか。よし、では』と言って切れる(笑)。やみくもに手伝わせるのではなく、长所や伸ばすべき点を见极め、若い研究者に仕事を割り与えておられました」。

中川先生の诱いで、小説の翻訳や、「幸福」についての共同研究など、多様な仕事に参加した。「闯础齿础(宇宙航空研究开発机构)との共同研究では、中川先生の设定した『宇宙の人间学』というテーマのもとで、名だたる学者たちと研究しました。『中川先生、宇宙のことまで……』と惊いたものです」。研究会で目の当たりにしたのは、分野の异なる学者たちとも堂々とわたり合い、発言する中川先生の姿。「専门外の议论にも意见を返し、论戦を张れる力は格别でした。并大抵では真似できない、これが大学者たるゆえんかと」。

19世纪の诗人に始まり、18世纪の文人政治家、20世纪の现代思想や精神医疗と研究领域の迁移した多贺教授。多种多様な仕事への参加は、多様な领域の视点から、一つの问题に迫る力を磨く机会となった。「おかげで様々な领域に対応できる人间になり、先生からも何かと『助けてくれないか』と声をかけていただけるようになりました。18世纪フランスの仕事はその道の方に任せておられましたが、领域外の仕事で困ると、最初に思い出してもらっていたのが私だったのかなと」。

みずからを厳しく见つめた先に生まれた名着

多贺教授が最も感服したのは、定年退官后の仕事量の多さ。「晩年まで学会に参加を続け、若手に混じり研究発表をされたのです。若辈者からすると胁威であり、敬服せざるをえない凄みがありました。ある时期から全ての着书をフランス语で执笔され、最晩年にはフランスの着名な学术出版社で论文集を完成された。恐ろしい势いでした」。

「恐ろしい」ほどの热量で研究を続け、生涯にわたり、自身の「実存」と向き合い続けた中川先生。その思索の跡は、何よりも论文に强く表れている。中川先生がフランスでディドロ学者として名声を博した论文に、多贺教授はその一端を见る。「复雑で难解ゆえに、フランスですらきちんと研究されてこなかったディドロの『セネカ论』という着作があります」。

セネカとは、古代ローマの皇帝ネロの家庭教师として治世を支えた哲学者。このセネカについてディドロは当初、暴君であるネロと妥协し、思想と実践とが乖离した人物だと强く断罪したが、晩年に招かれたロシアの宫廷で、思想を贯くことの困难を体験した。セネカの置かれた立场を理解したディドロは、セネカの生涯を弁护しようと『セネカ论』を执笔する。中川先生は、この『セネカ论』を厳密に分析し、セネカに重ねられたディドロ自身の人生と愿いを浮かび上がらせた。谁も追究しなかったテキストに、重要な意义づけがなされたのだ。「私が思うに、この视点は、セネカとディドロの二人の哲学者の上に、さらに先生ご自身の人生を重ねることで导き出されたように思うのです」。

まさに18世纪的な研究者だった

ディドロの活跃した18世纪は、絶対君主制から市民社会へ、中世から近代へと変わりゆく激动の时代。启蒙思想家は合理的な知识を蓄积する一方で、みずから最前线に立ち、社会変革を促す役割を担った。「私の知る先生は穏やかな绅士ですが、かつては学园纷争にも身を投じられたそうですし、若い顷は藩主というお生まれにとても悩まれたと闻いています」。

时代の流れに影响を与え、ときには翻弄された思想家たちを研究しながら、学者としての在り方を探しておられたのだろうか。ルソーの自伝について论じた着作からも、论を通して引き出したルソーの愿いに重なるように、中川先生自身の问いを见出せるという。「他者と自分との违いを强く意识しながら、それでも他者と一绪にいることを模索するような、强烈な论でした。心の奥底で生涯、自分を厳しく见つめておられたのでしょうね」。

新しい思想の潮流や流行りに追従せず、轴足は18世纪フランスから动くことはなかった。一方で、「自分を见つめる」というテーマを突き詰めるために领域や新旧を问わず、视野を広げ続けた。「精神分析に强い関心を示され、当初はあまりご存じでなかったのに、知らぬ间に専门家と议论できるほどの知识を身につけておられました。ディドロの最大の功绩である『百科全书』は人文学だけでなく、工业技术や経済の项目がある。多様な领域に学びながら、自身はその交点に立ち続ける姿势はまさに启蒙的な研究者でした」。

师に倣い、歩みは止めない

2022年3月に定年退职を迎える多贺教授。研究から身を引く选択はかけらも头にない。「『研究を止めるな』と师の背中が语っていますから」。

留学からの帰国后、日本に感じた疑问が研究の出発点だった。日本の政策や都市计画の歪(いびつ)さの原因を、フランスと比较しながら考えてきた。フランスの高校卒业试験にあたるバカロレアでは、大学进学を目指す场合には専门を问わず哲学が必须。高校の最终学年ではみっちりと哲学を教える。「そのためか、フランス人たちはじっくりと考え、相手に伝える技术が身に付いていると感じます。これが教养につながり、政治にも影响しています。日本も『伦理』でなく、『哲学』の科目を作るべきというのが私の主张(以前日本学术会议の提言がありましたが、実现せずに终わっています)。今年度の讲义では、どんな『哲学』の教科书が必要か、学生たちに问いかけました」。

今日一番の热弁が、まだまだ热く燃える研究への强い思いを物语る。「〈教科书〉というキーワードは中川先生からいただいたもの。闯础齿础との共同研究で、宇宙を考えるための教科书を作ろうとしていたのです。こうして话していると、いかに中川先生の影响を受けているかを実感します」。

「そういえば……」。懐かしさに目を细め、笑いながら多贺教授は言叶をつなぐ。18世纪は、人々のゴシップが巷に飞び交った时代。「中川先生もみんなの〈与太ごと〉を知るのが好きでした。どこかでじっと耳をそばだてておられたのでしょう。2次会、3次会と夜が深まると、先生から『谁々がパートナーと喧哗した』という话题が出てくる(笑)。そんなところも18世纪的な人だったのかもしれません」。

18世纪フランスの哲学者に共鸣し、〈自分〉という存在と対峙してきた中川先生。「先生から受け取った最も重く大きな课题は『自分自身であり続けろ』」。〈自分〉が存在する限り、问いは尽きることはない。

フランス留学前の仏文研究室コンパでの1枚。前列4人目の茶色いセーターを着ておられるのが中川先生。その左に座っておられるのは本城格先生(京都大学名誉教授)。后列右から5人目が多贺教授。左から4人目は人文科学研究所で活跃された大浦康介さん(京都大学名誉教授)、右から2人目がジャック?デリダ研究で知られる鵜饲哲さん(一桥大学名誉教授)。「中川先生の姿势の良さが际立っています」。


たが?しげる
1957年、京都府に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士后期课程修了。パリ第4大学ソルボンヌ(フランス语研究科)博士号取得。和歌山大学経済学部専任讲师、助教授、京都大学教养部助教授、同大学総合人间学部助教授、同大学大学院人间?环境学研究科准教授などを経て、2009年から现职。


中川久定先生 略年譜 (一部抜粋)

1931.3.15东京都に生まれる
1954京都大学文学部卒业
1956京都大学文学研究科修士课程修了
京都大学文学研究科博士课程入学
1959パリ大学文学研究科博士课程入学
1961 パリ大学文学研究科中退
京都大学文学研究科博士课程中退
名古屋大学教养部讲师(フランス语担当)
1965名古屋大学教养部助教授(フランス语担当)
1967 辰野赏(日本フランス语フランス文学会)
1971京都大学文学部助教授(フランス语学フランス文学讲座)
1976文学博士(京都大学)
1980京都大学文学部教授
1981パリ第7大学客员教授(1981年6月まで)
1985 パリ国立东洋言语文明研究所客员教授(1987年9月まで)
パルム?アカデミック勲章 オフィシエ級
1992京都大学文学部长(1994年3月まで)
1993京都新闻文化赏
1994 京都大学定年退官、京都大学名誉教授
近畿大学文芸学部教授(1997年3月まで)
1995日本学士院会员
1996 『ユートピア旅行记丛书』(全15巻、1996-2002年、岩波书店)
编集委员は赤木昭叁、川端香男里、轡田収、冨山太佳夫、中川久定。12巻の訳に多贺教授も携わる。现実世界を批判し理想社会の梦を语ろうと、空想上の(どこにも存在しない)世界を描いた文学作品を収録。「こうした作品が启蒙思想の里侧としてとても重要だという见方を中川先生は早い段阶で気づいておられました」(多贺教授)。2002年の着作『転倒の岛』にもその视点が垣间见える。
1997京都国立博物馆馆长(2001年3月まて?)
2001 国际高等研究所副所长(2009年3月まで)
河合文化教育研究所主任研究员
勲二等瑞宝章
2002 『転倒の島 ─18世紀フランス文学史の諸断面』(岩波书店)
舞台に空想の「岛」を设定し、そこで贵族と奴隷の立场の転倒剧が演じられる作品に注目し、フランス革命前后に文芸の分野で生じていた「価値の転倒」の意识の変化を分析した着作。
2004レジオン?ドヌール勲章 シュバリエ級
2005国际高等研究所?闯础齿础共同研究(2009年まで)
2007京都府文化赏特别功労赏
2017.6.18逝去

参考:「中川久定先生を偲ふ?」(京都大学文学研究科フランス語学フランス文学研究室 編)

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